【独立リーグとはなんだ?】 その7 なぜ大物選手がやってくるのか?

広尾晃

 超大物、マニー・ラミレス、高知ファイティングドッグス

 

1月9日、高知ファイティングドッグスは、元メジャーリーガーのマニー・ラミレスとの契約に合意したと発表した。
マニー・ラミレスは、今年44歳。ドミニカ共和国出身だが、ニューヨークの高校を卒業し、1991年にクリーブランド・インディアンスから1巡目指名されてMLB入り。
インディアンス、ボストン・レッドソックス、ロサンゼルス・ドジャースなどで、19年間プレーし、首位打者、本塁打王、打点王各1回、オールスター戦に12回出場、通算555本塁打、2574安打を記録。
2011年にMLBを引退。今年からはMLBの野球殿堂(Hall of Fame)の候補にエントリーされている。薬物疑惑があるために、選出は微妙とされるが、正真正銘のスーパースターだ。
キャリアの後半には、ドレッドヘアーでプレー。試合中に観客とハイタッチするなど、奔放な話題を振りまいた。
しかし、ミート力と長打力を兼ね備え、選球眼も抜群。投手にとって攻略が非常に難しい打者だった。
2011年にFAとなったが、なおもプレーする機会を求めていて、2013年には台湾プロリーグ(CPBL)の義大ライノスでプレーした。すでに41歳になっていたが、シュアな打撃は健在。
49試合に出場し、182打数64安打8本塁打、打率.352を記録。マニーは守備には就かず、打撃だけ。また3打席程度で交代した。6月末には「家族と暮らしたい」と退団した。プレーしたのは3か月足らずだったが、強烈な印象を残した。
当時、義大ライノスは経営難に苦しんでいたが、マニーを一目見たいと観客が詰めかけ、連日満員となり、経営を立て直した。
マニー・ラミレスはその後東京に移動し、NPBの球団にもコンタクトを取ったが、帰国後はマイナーリーグでプレーした。



台湾時代のマニー・ラミレス
 

 今回は、マニー・ラミレス側が声をかけたようだが、高知ファイティングドッグスは、幹部がアメリカに飛んでマニーと具体的な交渉をし、一か月に及ぶ折衝の末、ようやく契約にこぎつけた。
マニー・ラミレスは2009年には2385万ドルもの年俸を得ていた。もはや金額の問題ではなく、プレーする環境や、期間などの問題だったと思われる。
マニーは「「日本でプレーしている事をとても楽しみにしています」とコメント。NPBでプレーすることを希望しているともいわれるが、今年の四国アイランドリーグplusは目が離せない。

 

大物選手が入団する独立リーグ 

 

NPBと異なり、選手の移動が比較的容易な独立リーグには、思わぬ大物選手が入団することがある。
BCリーグでは、2014年にはBCリーグ群馬ダイヤモンドペガサスに、NPBでヤクルト、巨人、DeNAで2000本安打を記録したアレックス・ラミレスがコーチ兼任でプレー、2015年はシニアディレクターとして球団マネジメントに従事した。
この年、MLBで2518安打を打ち、ロッテでもプレーしたフリオ・フランコが57歳にして石川ミリオンスターズに選手兼任監督として入団。選手としては77打数24安打、打率.312を記録した。
さらにBCリーグでは、MLB選手で、近鉄、巨人などで活躍したタフィ・ローズも2015年、富山GRNサンダーバーズでプレーした。
四国アイランドリーグplusでは、2016年、台湾プロ野球(CPBL)史上最高のスラッガーだった張泰山が、徳島インディゴソックスでプレーした。張泰山は試合数、安打数、本塁打数、打点など、CPBLの主要な記録をすべて持っている。
すでに39歳の張泰山は、統一セブンイレブン・ライオンズ を退団、妻子を連れて徳島に移り住み、地元の人々とも交流しながらプレーした。
徳島インディゴソックスはかつて統一時代に監督だった中島輝士が監督を務めていた。



 台湾時代の張泰山
  

これらの選手が独立リーグでプレーをする動機は様々だ。マニー・ラミレスのように功成り名遂げた選手にとっては、純粋に「野球がしたい」という動機なのかもしれない。
一方でアレックス・ラミレスは、NPBの指導者になることを目指していた。事実、2015年の群馬ダイヤモンドペガサスのシニアディレクターを経て、DeNAに監督として復帰。2016年はチームを3位に導き、ポストシーズンに進出させた。独立リーグでのマネジメントの手腕が評価されたのだ。
独立リーグがない時代は、こうした選手が、日本球界にコンタクトする余地はほとんどなかった。
独立リーグができたことによって、選手にとっても、球界にとっても新たなチャンスが生まれるようになったのだ。
それが可能だったのは、BCリーグ、四国アイランドリーグplusともに、NPBの指導者の指導のもと、一定レベルの実力を有していたことが大きい。
いくら大物選手がプレーを希望しても、レベルが低すぎては受け入れることが不可能だ。

 

 藤川球児はなぜ、高知ファイティングドッグスを選んだか?

 

2015年6月、MLBのテキサス・レンジャーズを退団した藤川球児は、6月に高知ファイティングドッグスへの移籍を表明した。
藤川は高知県の出身だった。古巣阪神からのオファーもあったが、子供たちと夏休みに故郷で過ごす時間がほしいこと、そして郷里の野球少年に野球のすばらしさを伝えたいと、独立リーグへの入団を決意したのだ。
記者会見には地元メディアだけでなく、中央のメディアもかけつけた。前年暮れにニューヨーク・ヤンキースから広島東洋カープに復帰した黒田博樹に続き、「男気」ともてはやされた。
6月20日に高知市野球場で行われたオープン戦で初登板。球団新記録になる観客を前に、藤川は緊張した面持ちでマウンドに上がり、安打を打たれたものの無失点で降板した。

 
 

 藤川球児 高知市野球場での初登板

 

以後、藤川は2015年後期シーズンを高知ファイティングドッグスで投げ、救援だけでなく、2003年以来12年ぶりに先発投手としても投げ、完投、完封も記録した。
藤川は2015年オフに高知ファイティングドッグスを退団後、阪神タイガースに復帰した。
 
MLBからNPBに復帰する選手の中には、プレー環境が大きく異なるために適応にてまどり、成績を落とす選手が散見される。
藤川球児と同い年の松坂大輔は、ソフトバンク・ホークスに復帰したものの、復活できずに苦しんでいる。
おそらくは、藤川球児もいきなりNPBに復帰するのには不安があったのだろう。
独立リーグは、今の自分の実力をテストするうえで格好の環境だったのではないか。
NPBよりもレベルは落ちるが、自分がまだ投げることができるかどうか、試す程度の水準はある。NPB出身の指導者もいる。アドバイスを受けることもできる。
甲子園のような大観衆はいないが、懐かしい故郷の球場で、プレッシャーを感じることなくゆったりと投げることで、リフレッシュすることができたのではないか。
今後もこういう例が出てくるのではないかと思われる。
 
わずか3か月ではあったが、藤川球児のマウンドは、高知市の人々に勇気を与えた。藤川球児が野球を始めた少年野球チームの子供たちは球場に駆けつけた。
また、高知ファイティングドッグスの選手たちにとっても、NPB、MLBで実績を残した大選手とプレーすることは大きな刺激となった。
試合前には、藤川が地元選手たちにアドバイスする姿がしばしば見られた。
また高知ファイティングドッグスには、それ以降も地元だけではなく、東京のキー局や全国紙などから取材が相次いだ。
高知ファイティングドッグスでプレーすることよって、藤川はリフレッシュすることができたが、球団も、全国から注目され、知名度がアップした。


 

藤川球児を見るために観客が詰めかけた 
 
独立リーグは、異なる国の異なるリーグへの移籍を考える人にとっての「トランジット」の場でもあるのだ。
独立リーグができることにより、プロ野球選手にとっては選択肢が増え、様々な可能性が広がったと言えるだろう。これも独立リーグの役割だ。